乳がんと診断された日から、人生の優先順位を再構築することになる
前回は、乳がん検診や早期発見の重要性についてお話ししました。今回も、検診の大切さをお伝えすることに変わりはありません。しかし、今回は少し視点を変えて、「もし自分ががんになったら」ということについて考えてみたいと思います。
おそらく多くの方は、そのようなことを考えたくないでしょう。がんはどこか遠い世界の出来事であり、自分にはまだ関係ないと感じている方も少なくないと思います。しかし、乳腺外科医として日々診療をしていると、がんは決して特別な人だけに起こる病気ではないことを痛感します。そして実際に診断を受けた患者さんの多くが、「まさか自分が」と口にされます。
乳がんと診断されると、患者さんは治療そのものだけでなく、仕事や家庭、育児、介護など、さまざまな問題に向き合うことになります。特に小さなお子さんがいる方では、「子どもの成長を見届けられるだろうか」「家族に迷惑をかけてしまうのではないか」といった不安を抱えることも少なくありません。診断を受けたその日から、人生の優先順位や価値観とあらためて向き合うことになるのです。
自分らしく過ごすために。希望する医療やケアを周囲と共有する「ACP」という考え方
どうやったら、できるだけ自分が受けたい形で診療を受けることができるか。そのような観点で、近年注目されているのが、ACP(Advance Care Planning:アドバンス・ケア・プランニング)です。ACPは、自分にとって大切なことや、将来どのような医療やケアを受けたいのかについて、家族や医療者とあらかじめ話し合い、共有しておく取り組みです。
「延命治療を受けるかどうかを決めるもの」「人生の最期について話し合うもの」という印象を持たれる方もいるかもしれません。しかし、本来のACPはもっと幅広いものです。自分は何を大切にして生きたいのか、どのような時間を家族と過ごしたいのか、自分らしさとは何か。そのような価値観を見つめ直し、周囲と共有するための対話と言えるでしょう。その意味で、ACPは「人生会議」とも呼ばれます。
そして、このようなことは、病状が悪化してから考えようとしても簡単ではありません。実際に診療をしていると、具合が悪くなってから初めて選択を迫られ、十分に考える時間を持てない患者さんやご家族を数多く目にします。だからこそ、元気なうちから少しずつ話し合っておくことが大切なのです。私の知り合いの医師の中には、「風邪で受診した患者さんにもACPについて話す」という方もいるほどです。
ACPの考え方は、医療制度の中でも重視されるようになっています。2024年度診療報酬改定では、医療者が患者さんの意思決定を支援することの重要性が改めて示されました。高齢化が進み、急性期病院にも高齢患者さんが多く入院するようになった現在、「どのような医療を受けたいか」「逆にどのような医療は望まないか」をあらかじめ確認し、その意思を尊重した医療を提供することが求められています。
私の勤務するときわ会常磐病院でも、ACPの普及に取り組んでいます。私たちが大切にしているのもやはり、具合が悪くなった方だけでなく、比較的元気なうちから考える機会を持っていただくことです。ACPは死を前提にした話し合いではなく、むしろ、これからの人生をどのように生きたいかを考えるための対話だからです。
価値観の差を早めに埋めておくことが、患者と家族双方の負担軽減につながる
ACPを進める中で、もう一つ実感していることがあります。それは、患者さん本人とご家族が必ずしも同じ価値観を持っているわけではない、ということです。そこで私たちは、患者さんとご家族が人生や終末期医療についてどのように考えているのかを調査しました。
その結果、患者さんは「自立」や「自己決定」、「これまで通りの日常生活を送ること」を重視する傾向がみられました。また、「病状や予後について率直な説明を受けること」や、「信頼できる医師に意思決定を委ねること」、「苦痛を和らげること」を大切に考えていました。
一方で、ご家族は患者さん本人よりも「生命を少しでも長く保つこと」を重視する傾向がみられました。「十分に納得できるまで治療を続けてほしい」と考える方も多く、患者さん本人とは異なる価値観を持っていることが明らかになりました。
詳しい専門分析でも、患者さんは「自律性」「負担の軽減」「緩和ケア」といった価値観の近くに位置し、ご家族は「生命延長」と関連する価値観の近くに位置していました。つまり、患者さんは「どのように生きるか」を重視し、ご家族は「少しでも長く生きてほしい」という思いを重視する傾向があったのです。
また興味深かったのは、患者さんと代理意思決定者との関係性による違いです。配偶者では患者さんとの価値観のずれがみられた一方、子では大きな差は認められませんでした。配偶者は日常生活をともにする存在であり、患者さんを失うことへの不安がより強く反映された可能性があります。一方で、成人した子どもは比較的冷静に患者さん本人の希望を尊重しやすかったのかもしれません。
もちろん、どちらが正しいという話ではありません。患者さんもご家族も、お互いを大切に思うからこそ異なる考えを持つのです。しかし、その違いが病状悪化後に初めて明らかになると、本人にも家族にも大きな負担が生じます。だからこそ、元気なうちから話し合っておくACPが重要になるのです。
ACPは自分らしい人生を考え、がん検診はそのための選択肢を守る取り組み
さて実際、ACPについて患者さんやご家族と話し合っていると、さまざまな本音が聞こえてきます。その中で特に印象に残るのは、
「もっと早く病気に気づいていれば違ったかもしれない」
「検診に行っていたら、もっと選択肢があったかもしれない」
という言葉です。
前回もお話ししましたが、もちろん、すべての乳がんが検診で見つかるわけではありませんし、早期発見がすべての問題を解決するわけでもありません。しかし、早く見つかることで選択肢が増えることは事実です。より小さな手術で済むかもしれませんし、抗がん剤を避けられるかもしれません。仕事や家庭生活への影響を少なくできる可能性もあります。
私は、ACPと検診は実は同じ方向を向いているのではないかと考えています。
先述の通り、ACPは人生の最終段階について話し合うものと思われがちですが、本質的にはそうではありません。限られた時間をどう生きるのか、自分らしく生きるために何を大切にしたいのか、「これからどのように生きるか」を考えるための取り組みです。
そして検診もまた、単に病気を見つけるためだけのものではありません。自分らしい人生を続け、実現するための選択肢をできるだけ多く残し、守るための行動なのです。
後悔する家族の声を何度も聞いてきた。だから、一歩踏み出す大切さを伝えたい
自分らしい人生を考えること、そのために選択肢を多く残すこと。どちらも、本人だけの問題ではありません。家族にとっても大切なテーマです。
実際の診療では、
「あの時もっと検診を勧めていれば」
「もっと早く受診させていれば」
と後悔されるご家族の声を耳にすることがあります。
もちろん、未来を正確に予測することは誰にもできません。しかし、大切な人に「最近検診は受けた?」「体調は大丈夫?」と声をかけることはできます。自分自身のことは後回しにしてしまっても、家族のためなら行動できることがあるかもしれません。お互いのために行動することは、自分に返ってくることでもあります。
乳がん診療に携わるほどに、私は改めて実感します。ACPは「死に備えるためのもの」ではなく、「今をより良く生きるためのもの」だということを。そして検診もまた、「病気を探すためのもの」ではなく、「これからの人生の選択肢を守るためのもの」だということを。
人生はいつまでも続くように思えますが、誰にとっても限りがあります。だからこそ、自分にとって本当に大切なものは何かを考えること。そして、その大切な時間を少しでも長く、自分らしく過ごせるよう備えることが重要なのではないでしょうか。
この記事が、ご自身やご家族の健康、そしてこれからの人生について考えるきっかけになれば幸いです。まずは検診の予約を取ること。そして大切な人と健康について話してみること。その小さな一歩が、将来の大きな後悔を減らしてくれるかもしれません。
